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第六章 奇跡の終焉①

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-20 08:53:38

 ヴェレーンはこの季節、雪に閉ざされる山間の辺境の村である。村の東の外れにある墓地の裏手には滝があり、ラーウェ川へと流れ込んでいる。氷のように冷たい川の流れの先はシュオレ湖に繋がっていた。

 湖畔には木造の風車小屋が佇んでいるが、湖面が凍ってしまっている今は、本来の役目を果たすことなく、雪解けの季節を待ちながら眠りについていた。

 埃っぽい匂いのする黒いウールのカーテンが閉じられた風車小屋の室内で、ちらちらと赤い炎が揺れる暖炉にあたりながら、イーシュは不安げに溜息をついた。

「リスルさん……一旦は逃げ切れたってことでいいんでしょうか。村のほうから教会の追手がくる様子もないですし」

 リスルとイーシュは、昨日の夕刻に神聖騎士団の僧兵たちと一悶着あった後、村の東の外れにある滝の裏の洞窟でしばらく息を潜めていた。ほっそりとした弧を描く白い月が空の一番高い場所に上ったころ、二人は滝下を流れる心臓が止まりそうなほどに冷たいラーウェ川へと飛び込んだ。そのまま、何時間かかけて河口を目指して、水の中を歩いてきた結果、二人は身を凍えさせながらここに辿り着いた。

「こんな場所、見つかるならとっくに見つかっているわよ。それがこの時間まで追っ手も何もきていないんだから、何日かの間、しばらく身を隠すくらいはどうにかなるんじゃないかと思うわ」

「微妙に怖いこと言いますね……」

 要所要所で追手を誤魔化すための小細工をいくつか仕掛けてきてあったが、もしリスルの意図した通りに相手が騙されてくれていなければと思うと、イーシュはぞっとした。教会から派遣された捜索部隊に見つからないで逃げ切れるかどうかも、ただでさえ万全でない体調の自分たちが逃げ切るだけの体力が残されているかどうかも賭けで、すべてが危うい綱渡りの上で成立していた。

 自分たちを逃してくれた神父たちはどうなっただろうか。教会から指名手配されている自分たちを庇い、親切にしてくれたあの人々は酷い目に遭っていないだろうか。あの荒くれ者揃いで悪名高い連中のことだ、彼らに乱暴を働いていない保証などどこにもない。

 イーシュは、村に残してきてしまった優しい人々の身を案じながら、ゆらゆらと揺れる暖炉の炎を見つめる。憂いを帯びた濃茶の瞳を認めると、リスルは言った。

「イーシュ。今は身体を休めることを第一に考えなさい。元々疲れが溜まっていたところにこんな無茶をしたんだもの、もういい加減に体はぼろぼろよ。わたしもあなたも、ね」

「でも……」

「いいから。ね?」

 リスルは強引にイーシュを埃の匂いがするベッドへと追いやった。戸棚にあった毛布を出してくると、リスルはその足元に腰を下ろして毛布に包まった。何だかこんなやりとりは久々な気がして、こんなときだというのにリスルの口元が自然と綻ぶ。生きていたころの弟の年よりイーシュのほうがいくつか上で容姿も特に似てはいないが、自分が普通の人間で、あんな事件さえなければ、こんな時間が今でも続いていたのかもしれない。

「リスルさん……?」

 不審げにイーシュの声が投げかけられる。ああ、ごめんね、とリスルは彼を振り返り、

「弟のことをね、思い出していたのよ。イーシュよりいくつか年下だったんだけどね」

「弟さんって……」

 きっと『アルクスの大火』で亡くなったのであろうリスルの家族のことを詳しく聞くのは憚られた。人の命を奪うことの重さをイーシュは身をもって知っている。それが大切な相手であれば、その苦しみは相当なものであることは想像に難くない。

「あの子はもう、とっくにこの世にはいないのだけれど……いいえ、違うわね……わたしがあの子を殺してしまったのよ」

「……」

 自嘲気味に呟くリスルから、イーシュは気まずげに視線を外す。ごめんなさい、とリスルは黙り込んでしまったイーシュへと詫びる。あれは能力を制御できずに暴発させてしまった自分のせいなのだから、彼にこんなふうに気を遣わせることではない。それにどのみち、あの事件がなくとも、病弱な弟は大人になるまで生きていられたかわからないし、長年、異能を酷使し続けたせいでリスル自身の命も今や風前の灯だ。もし違う人生を歩んでいたとしても、今も誰一人欠けることなく家族と一緒にいられた可能性は低かった。

 リスルはイーシュの灰色の髪をそっと撫でる。十四歳という難しい年頃の少年は少し気恥ずかしそうにしていたが、抵抗することはなく大人しくしていた。

 イーシュがどんな感情をリスルに抱いているかも知らずに、こうやって年の離れた弟のように扱ってくることに関しては物申したくはあるが、イーシュとしてはこうやって彼女に触れられることは嫌いではなかった。こんなときだというのに、心臓がそわそわと騒ぎ出す。

「そうね、せっかくだから寝物語に昔話でもしましょうか」

 リスルは過去を懐かしむように、穏やかな目でイーシュを見つめた。今ならば、これまで触れることのできなかった古傷を純粋な思い出として振り返ることができる気がした。イーシュは早くなった鼓動を悟られないように気をつけつつ、こくりと頷いた。彼女の綺麗な新緑の双眸に写った自身の姿が少し挙動不審気味に彼を見ていた。

「昔、南の田舎町にある少女がいました」

  リスルは歌うような口調で語り始めた。

「少女は陽気で大らかな父親とおっとりとした母親、病弱な弟の四人家族で、葡萄を育てながら幸せに暮らしていました。

 一見、普通であるように見えましたが、少女には生まれつきある特技がありました。少女は他人よりも勘が鋭く、天気や水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することができました。たまに人ならざる自然の声を聞くこともありましたが、少女はそれが身の内に宿った『悪魔の力』によるものとは知らず、特に違和感を覚えることはありませんでした」

 リスルは穏やかな口調で滑らかに言葉を紡いでいく。本当にそんな感じだったな、と彼女は思う。自分には力が身近なもの過ぎて、あのころはその特異性に気づいていなかった。

「あるとき、レシェールで教皇の代替わりが行なわれました。新しい教皇は『悪魔の力』を厳しく取り締まりました。少女の能力についても教会の知るところとなり、少女は火刑に処せられることとなりました」

 火刑と聞き、イーシュは身を震わせる。

「リスルさんは……」

 イーシュは何か言いかけたが、言葉の続きが見つからなかったのか口籠る。その様にリスルは苦笑する。この子は繊細で優しい子だ。きっとイーシュはリスルのことを気遣おうとしてくれた。

「あのね、イーシュ。別にこれはわたしの話だなんて一言も言っていないわ。これはあくまである少女の話」

「……」

 イーシュは明らかに納得していない顔で黙り込む。

「火刑に処せられた少女は、燃え盛る炎の中で”何か”の声を聞いたわ。少女はその声に導かれるまま、力を解き放ち――暴走させてしまった力により故郷の町を業火で包み、一夜にして燃やし尽くしてしまったの。焼け跡には何も残らなかった。少女も町から姿を消したわ。

 去り際に少女は、傷ついた小鳥の命を救ったというわ。罪もない命をたくさん奪っておきながら偽善もいいところだとは思うけれど……せめてもの贖罪のつもりだったのかもしれないわね」

 己を蔑むようにリスルは嗤った。そんな彼女の表情をイーシュは見ていられなくて、

「あの……俺にはよくわからないですけど。でもその人は神様でも何でもないただの人間なわけでしょう? なら、すべてを救うことなんてできないのは当たり前のことだし、せめて目の前の命だけでも救おうとして何がいけないんですか? それを偽善なんて言葉で扱き下ろすのってどうなんだろうって俺は思いますし、そういった状況下で他者に手を差し伸べられるだけその人は立派ですよ」

 イーシュの言葉にリスルは明るいグリーンの瞳を見開いた。思いがけない肯定的な言葉が彼女の心をじんわりと温かくさせた。目の奥が熱くなるのを感じながら、リスルは、

「ありがとう。イーシュ」

「……別に、俺は何も」

 イーシュは照れ隠しのつもりか目線を泳がせながらぼそりとそう呟いた。リスルはくすり、と小さく笑い声をこぼした。もう子供は休みなさい、と彼女が言うと、イーシュは何とも言えない顔で、

「そうやって世話を焼きたがるところ、リスルさんって、本当にお姉さんって感じですね」

「そうかしら?」

「ええ。うちの姉もそうやって何かと俺の世話を焼きたがりましたから。まあ、もう俺のことなんて覚えてないでしょうけど……」

 寂しそうなイーシュの言葉にリスルはあれ、と思う。てっきり『フィエロの悪夢』の当事者である彼も家族と死に別れているのかと思っていたが、今の口ぶりでは彼の姉は生きているように聞こえた。

「イーシュのお姉さんは今は……?」

 リスルは慎重に言葉を選びながら、イーシュへと問うた。

「生きてますよ。もっとも、過去の記憶はないみたいでしたけど……でも、あんな目に遭ったんだから、そのほうがきっと姉さんにとっても幸せでしょう」

「……」

 返答に困ってリスルは沈黙した。何が幸せなのかはイーシュの姉自身が決めることとはいえ、この歳の少年がこんなふうに言うのは悲しいことだと思った。肉親が生きているとわかっているのに、別れを選ばざるを得なかったイーシュの心境を思うと、まるで自分のことのように胸が締め付けられた。

 リスルの表情が曇ったことに気づいたイーシュは、

「別に、リスルさんがそんな顔をしなくても……」

「だって……お姉さんと離れ離れになることはきっと、イーシュにとって辛いことだったはずでしょう? 当時、あなたはまだ十一歳で、恐ろしい体験をした後にそんな苦しい選択をしないといけなかったなんて……」

 イーシュが辿ってきた人生の惨さに、リスルの言葉尻が震えた。

「だからこそ、ですよ。村が盗賊に襲われたときに、能力が発現して……力を暴走させて、姉さん以外、村の人も盗賊も全員殺してしまったのは俺です。俺は、そんな得体の知れない力を持った自分のことが化け物みたいに思えて、恐ろしくなって逃げたんです。姉さんを王都の近くの街道沿いに置き去りにして。俺は……姉さんと一緒にいるのが怖かったから。一緒にいたら、いつか傷つけてしまいそうで」

「イーシュ……」

 リスルにはイーシュの気持ちが痛いほどわかった。彼女自身も自らの手で故郷の町を焼き滅ぼしてしまったとき、自分は教会の言う通り、悪魔の祝福を受けた『魔女』なのだと思った。長い年月を経て、力の扱い方は覚えたものの、あのときに感じた己への恐怖は今も彼女自身に寄り添って離れない。

 イーシュはぽつぽつと呟いた。

「あれから、姉さんの様子を見に、一度だけ王都に行ったんです。運良く誰かが姉さんを保護してくれたみたいで、姉さんは王都の礼拝堂に身を寄せていました。ただ、姉さんは記憶を失っていて……昔とは違う名前で呼ばれていました。

 どういう経緯で知り合ったのかはわからないけれど、姉さんの近くには、”殿下”って呼ばれている男の人がいて……姉さんはもう、俺なんかが関わっちゃいけない世界で生きているんだなって感じました」

 ”殿下”と呼ばれていた青年は、イーシュの姉――ユーフェを”エミル”という神の使徒の一人と同じ名前で呼んでいた。その様子を陰からそっと見ていたイーシュは、安堵するとともに寂しさを感じた。あのころの面影は確かに残っているのに、彼の手の届かないところに彼女はいた。呆れたように名前を呼ぶその声はもう二度と彼に向けられることはない。あのとき、彼は自分の選択の意味を改めて噛み締めることとなった。

「俺の――俺たちの周りからは、皆、いなくなるんですね。俺はこんな得体の知れない力なんていらなかった。ただ、普通に生きたかったっ……じいちゃんと姉さんと一緒にいたかったっ……!」

 沸き起こる感情を押し殺そうとするようにイーシュは吐き出す。しかし、その口から溢れる言葉は次第に湿り気を帯びていく。彼は自分の毛布を頭からすっぽり被ると寝台の上で寝返りを打ち、枕に顔を強く押し当てた。リスルは微かに震える頼りない背中をぽんぽんとさすってやる。

「そうね。わたしもそうだわ」

 家族とともに平穏に暮らしていきたかったのはリスルだって同じだ。あのまま暮らしていけるなら、こんな力なんて欲しくなかった。

「……今はこうやって一緒にいてもきっといなくなるんですよね。リスルさんも」

「ええ、そうね。わたしはもう長くないもの」

 そう言って微笑んだリスルの顔は疲れを感じさせた。やりきれない気分になって、イーシュは彼女へと言い募る。

「何で……何で、リスルさんはそうやって誰かのために力を……? 寿命を削ってまでリスルさんが誰かを助けるメリットなんて何もないじゃないですか……! それなのに、どうして……!」

「わたしはね、自分に助けられる力があるのがわかっていて、目の前の人をするような真似はしたくないの。それに、わたしは自分が教会の言うような悪魔に祝福された眷属なんかじゃない――『魔女』なんかじゃないって証明したかったのかもしれない」

「だからって……! 馬鹿なんですか、リスルさんは……!」

 泣きそうな顔でそう詰ってくるイーシュに、リスルはただごめんねと言って抱きしめることしかできなかった。身体を包む柔らかな感触にイーシュは身じろぎしたが、その腕を振り解きはしなかった。

「イーシュ。わたしはあなたの傍にずっとはいられない。だけど、あともう少し……わたしの命の終わるその時までは一緒にいるから。約束するわ」

 リスルがそう言うと、腕の中でイーシュは微かに頷いた。

 あの日弟と交わした約束は守れなかったけれど、この約束こそは決して破らせないで欲しいと彼女は願った。

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